One Shot Stories

新宿の路地裏のBar Up to You が贈る ~1杯のお酒が紡ぐ、ちょっといい話~

Vol.10 「逆上がり」/浦霞林檎

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ドアを開けたとたんに、小さな修羅場が飛び込んできた。
「放してよ!大丈夫だって言ってるでしょ!」
「ゆうちゃん!もう10時なのよ。子どもが出歩く時間じゃないでしょ」
「なんだ?どうした?」
勇樹のジャンバーの袖を掴んだまま、妻は「おかえり。ねえ、言ってやってよ」と困った顔を向ける。
「だからボクは夕方行こうとしたのに、ママがバイオリン休んじゃ駄目だって言ったんじゃないか」
「当たり前でしょ。お月謝いくらだと思ってるの!」
「ママは、オレより月謝が大事なの?」
「勇樹、どこに行きたいんだ?お父さんに説明してごらん」
近頃は「パパ」は呼びにくそうにしていたので、僕は敢えて自分を「お父さん」と言うようにしている。
「パパ!公園に行かなきゃならないんだよ。ママが止めるんだ」しかし今は呼び方なんかにかまってられないらしい。
「公園で何するんだ?誰かに呼び出されたのか?イジメか?」
嫌な想像に襲われ、性急に問いただす。
「違うよ!鉄棒の練習をしたいだけなんだ」
「ゆうちゃん、落ち着いて。ね、明日学校が終わってから行けばいいじゃない」
「だから!明日体育があるからって言ってるじゃないか!放せよ!くそばばあ!」

ネクタイだけ外したスーツ姿のまま、勇樹と夜道を歩く。

「くそばばあはまずかったよ。お母さん、貧血起こしそうだったぞ」
「だってさあ。あーあ、いつまでオレに干渉するんだろう」
思わず噴き出した。
「おまえ、小学生だぞ。まだ親の言うこと聞きなさい」
「僕の言うことも聞いて欲しいよ。クラスで僕ともう一人しかいないんだ。逆上がりができないのは。パパ、僕、恥ずかしいんだ。どうしても、できるようになりたいんだ」
「そうか。あ、そのもう1人の子と練習するといいんじゃないか?仲良くなれるぞ、そういうの」
「超トロい、コマキって女子だよ。やだよ」

夜更けの公園。真ん中に外灯が一つ。
勇樹は、3つあるうちの、一番低い鉄棒を逆手で握る。
「とりゃあ!」勇ましい掛け声も虚しく、蹴り上げた足は空をバタついて落ちた。
「うーん。もう少し腕で引きつけて、クルッと行っちゃえばいいんじゃないか?」
「やってるんだけど、落ちちゃうんだよ」勇樹は首を傾げる。
「お父さんが押してやろう。それで感覚を掴むんだ」
勇樹の、蹴り上げた体を押そうとしたが、タイミングを外した。記憶より、勇樹は重くなっていた。危ういところで無理矢理腰を鉄棒に乗せた。

着地した勇樹は、憮然とした顔をする。
「よく分からなかった。お父さん、お手本見せてよ。」
「うーん。お父さん今日、お酒飲んで来ちゃったからなあ」
背広を脱いで勇樹に預け、一番高い鉄棒を握る。懐かしい、鉄の冷たい感触、匂い。
念入りに弾みをつけ、勇樹を真似て「とりゃあっ」と蹴り上げてみたが、呆気なく落ちた。
「重てー」
「パパ、いいよ。もうボクひとりで練習するから」
すごすごとベンチに座って、手のひらをさする。

何処に咲いているんだろう。微かに梅の香りがする。
勇樹の荒い息と、土を蹴る靴の音が響く。
ジョギングしてきた若者が、ちらっと自分と勇樹を見て行く。深夜の逆上がりの特訓。スパルタとか虐待に見えなくも無いな。
「おーい。勇樹ぃ。無理するなあ」
わざとらしく呑気な声を出した。
「もうちょっと!もうちょっとなんだ!」

頑張るなあ。この強さは妻ゆずりだ。
きっぱりと結婚を言い出したのも彼女だった
「どうしても、あなたと生きていきたいの」。
そう言った目の輝きに惹かれた。
自分は、何かをどうしても欲しいとか、絶対に叶えたいと思ったことが無い。
アスリートも研究者も「オタク」とか「おっかけ」も、何かに熱中している人を遠く、そして羨ましく思っている。
僕は熱が足りない。ストレートな感情表現もしない。というか、感情が希薄なのかもしれない。
それはずっと心に引っかかっていたことだった。

「あーっ!」

叫び声で我に返った。「ど、どうした?」
勇樹は強張らせた手のひらを睨んでいた。

「豆がつぶれたんだよ。帰ったら絆創膏貼ってもらえ。泣くなよ。前見て歩かないと転ぶぞ。やれるだけやったんだ。偉かったぞ。
逆上がりなんて、ある日突然出来るようになるもんだ。明日かもしれないぞ。元気出せ」
勇樹は腕で乱暴に涙をぬぐう。
「パパは、ビール飲んで来なかったら、出来たの?」
「うーん。どうだろう。あ、今日はビールじゃなくて、ちょっと飲み慣れないお酒だったんだ。ジントニックって言ってさ」
「ふーん。美味しいの?」
ママが教えてくれた、カクテル言葉が蘇る。「決してあきらめない強い意志」
「父さんには、ちょっと、眩しいかな」
「ふーん。よくわかんないけど。ね、お父さんさ、また僕の頼み聞いてくれる?」
「なんだ?今度はどうして欲しいんだ?言ってごらん」
「今じゃないよ。今日みたいに、僕が困ったらさ、助けてくれる?」
「もちろん!絶対!必ず助ける」
「なんでも?」
「なんでも。何があっても。お父さんは絶対勇樹を助けるぞ」
「絶対?」
「絶対、絶対。必ず!」
「絶対だね」
きゅっと喉が熱くなった。眼も熱くなった。ああ、熱いや。
静かに笑いがこみあげてきた。
「何度言わせるんだ。絶対だよ」

おわり

 

 <Bar Up to You>
新宿西口、路地裏の雑居ビルの7Fに隠れ家のように佇んでいる小さなBar。

東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
tel : 03-5322-1112

営業時間:17:00~25:00  定休日:日曜日

夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。

このブログは、毎月1つの酒をテーマに、当店のゲストの皆様方が、一編のストーリーを作り、投稿されているブログです。

当店のHPはこちら! http://www.up-2you.jp/index.html

Vol.9 「ずっと」 /清水 楓

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アラームを止めたのは覚えているのにその後の記憶がない。
目が覚めた時にいやにすっきりと頭が冴えていた。
やった!と一瞬で分かった。
案の定、起きなくちゃいけない時間はとうに過ぎていた。
結衣は最低限の準備をし、足早に家を出た。
昨夜は少し飲み過ぎて帰ってきた時間もあやふやなのに、習慣とは恐ろしい。
服は着替えていたしメイクも落としていた。
階段を駆け降り、マンションの入り口にあるポストを覗くと封書やハガキが数枚入っていた。ガサッと掴んでバックに入れ、駅まで走った。


なんとか遅刻は逃れた。
同じフロアで働く同い年の舞とランチに出かけ、ハッと思いだしバックに押し込んだ郵便物に目を通した。
カード会社からの請求書、フィットネスのDM、ポスティングされたであろう飲食店と金融機関のチラシ。
最後の一枚は見慣れない差出人からのハガキだった。
裏を見ると高校の同窓会のお知らせだった。
「へぇー、懐かしい」と呟くと舞が
「なになにー?」と興味を示した。
「高校の同窓会やるんだって。あの頃の友達とはほとんど会ってないな。卒業してからもう8年か!」
「月日の経つのは早いよね。社会人になってからは尚更だよね」舞はカフェオレを飲みながらしみじみ言った。
「ホントに。久しぶりに行ってみようかな、ちょっと会ってみたい人もいるし」
「誰よー、元カレとか?」
「違うけどまぁ…ね。」
「意味深!行ってきてよ!何か起こりそう」
と舞はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。


高校時代は一般的な楽しい3年を過ごした。マンモス高と呼ばれた大きな学校だった。
1年の時に同じクラスの隣の席だった隼人とは異性ながら仲が良く、本人同士は単なる友達と思っていたが、事あるごとにひやかされる程だった。
隼人は野球部のエースだったが、強いチームではなかったので、結衣は勿体ないなと思っていた。

隼人とは2、3年はクラスが違ったがずっと友達として付き合いはあった。

 

卒業も間近だったある冬の日に、結衣は隼人に話があると呼び出された。
違う大学へ進学する二人はもう毎日顔を合わせることも無くなる。
隼人は今になって気付いた、付き合って欲しいと言ったが、結衣は少し悩んで断った。彼のやりたい事が疎かになるような気がしたのだ。
隼人には大学でも野球をやるという強い気持ちがあり、出来ることならプロにもなりたいと言っていた。邪魔にはなりたくないし、その事で喧嘩もしたくなかった。
そう伝えた。

隼人は「そうだよな、ありがとう。
これからも友達でいよう」と少し悲しそうな顔をしたが、二人は笑って別れた。
ずっと気にはなっていたものの、大学時代も社会人になっても隼人とは連絡を取らなかった。
風の噂で、隼人は社会人野球をやっていると聞いた。大学ではチャンスに恵まれなかった様だが、まだ諦めてはいないんだなと、陰ながら応援していた。

 

2ヶ月後、結衣は同窓会の会場へと向かった。都内のホテルのパーティー会場には
ざっと見ただけでも60人程集まっていた。
ドリンクを手に取り振り返ると、一番仲の良かった愛美が駆け寄ってきた。
久しぶりー!と挨拶を交わし、お互いの近況を話した。愛美は卒業してから地方へ行った為に会うのが難しく、久しぶりの再会だった。

「ねぇねぇ、隼人とは連絡取ってるの?」
「全然だよ。野球やってるって事しかわからない」
「えー、そうなんだ。てっきり…」
そこへ割って入ってきたのは隼人だった。
「久しぶり!」

高校時代より一回り大きくなっていて、いかにもスポーツマンという感じだ。
ジャケットの上からでも分かる引き締まった体は美しかった。

愛美は気をきかせたのか、また後でとその場を後にした。結衣は多少の気不味さもあり上手く言葉が出てこなかった。

二人で会場の隅にある椅子に座り、卒業してからの事を話した。
他には目が行かなかった。
隼人との再会がこんなにも嬉しいとは予想外だった。
たまにどこからか視線を感じてはいたが、これだけの人がいる中では疑問にも思わなかった。
しばらく話し、連絡先を交換して後日食事でもとそれぞれの友達の元へ向かった。

 

2週間後の土曜日、やっと都合のついた二人は、隼人の行きつけだと言うスペインバルで食事とお酒を楽しんだ。

「ここ、スペインバルだけどさ、ジントニックが旨いんだ」
「そうなんだ!滅多に飲まないけど、飲んでみよ」

慣れないジンを飲み過ぎた結衣を隼人は家まで送ってくれた。
そしてそのまま一夜を過ごした。

こんな事になるとは思っていなかった。
あれから8年も経ってまさか。
隼人の野球の邪魔をしない事を約束し、二人は恋人になった。

でも結衣には、ひとつだけ気になっている事があった。
同窓会の時に感じた視線と同じ感覚が度々あるのだ。
隼人と一緒の時は特に。
彼は気のせいだと言うので、そう思う事にした。

 

しかし半年経ってもそれは続いてた。
どうしても気になるし、恐怖すら覚えた。
その頃になると隼人も時々感じていた様で、二人は隼人の部屋で一緒に住む事にした。同じタイミングで感じたら気のせいではない。
それを確かめる為に。


すっきりと晴れたある土曜日に、隼人の試合があったので、結衣は球場に同行しスタンドで見守った。

 

5回表0-0、隼人のチームの攻撃、打順は彼からだ。
結衣は祈る様に隼人だけを見つめていたが、ふとあの視線を感じた。
その方向を見ると6列程横に座っている女だった。
その視線は真っ直ぐに隼人を見ている…
のではなく、結衣を見ていた。
間違いなく結衣を見つめていた。
観客に紛れて顔は分からなかった。

声が出そうになったが、何とか抑え慌ててグラウンドに視線をそらした。
レフト前にヒットを打った彼はセカンドにいた。何も知らない彼は結衣を見てニコリと笑顔を作った。

試合は2-0で勝利し、撤収が始まる頃にはもうあの女は見当たらなかった。

駐車場で隼人を待ち、おめでとうとハグをした。離れようとした時に結衣の視線の先にあの女が立っていた。
「きゃ!」
「どした?」
「離れないで。試合中にあたし見られてたの。きっとあの視線。いつも感じてたあの視線!ゆっくり振り返って」

耳元でそう言った結衣に言われた通りに隼人は振り返った。
深めにキャップを被り眼鏡をしていて顔は良く分からないが、確かに何処かで見た様な気はした。

「俺たちに何か?」
「随分仲良しね」

隼人は結衣を離し、女に向き直った。
「誰?」
「誰?何言ってるの?今更」

「今更ってなんだよ。俺たちの事付け回してたのか?」

「付け回してなんかいない。隼人と同じ空間にいただけ。どうして結衣と一緒にいるの?ずっと私と2人だったのに」


結衣は気付いた。
この声を知っている。


「あなた……どうして隼人を知ってるの?
ずっと2人だったってどう言う事?」

「高校の時からずっと、9年経った今でも私はずっと隼人しか見てないの。大学時代も毎回試合を見てた。社会人になってもずっとよ。なのに隼人は全く私に気付かない。いつも見てたのに。なのに振られた女と8年ぶりに会って、さっさと付き合い出して同棲までしてる。高校の時、私は結衣といる時の隼人が嫌いだった。でも!いつも結衣と話してる時が一番綺麗な笑顔だった」

怒りとも恐怖とも言えない感情で結衣は震えていた。

「私達と同じ高校だったの!?」

「そうよ。同じ会社にいて、同じフロアにいて、ランチまで行ってるのに気付かないなんてバカな女」

「お前、ちゃんと顔を見せろ!」

「見たら分かるの?私の事なんて覚えてる訳無いよね?だって隼人は野球と結衣にしか興味無かったじゃない?」


そう言って舞はキャップを脱いだ。


「お前…確か2年の時に同じクラスだった…よな。あの時からずっと俺の事見てたのか!?信じられない!」

「結衣は隼人の野球を邪魔したくないって言ってたよね。私聞いてたよ、あの時の会話。だから私も同じようにそっと見守ってたの。誰よりも隼人を知ってるの。だからこれからもずっと見てるわ」

舞はそう言うと雑踏の中に消えた。

「俺、バカだな。本当に何も知らなかったし気付かなかった。結衣にまで怖い思いさせてごめん」

「あたしだって同僚なのに全く…」

二人はしばらくの間、立ちすくしていた。


今後の事を考えて引っ越しを決め、仕事も変わろうかと思っていた矢先に舞が突然退職したと知らされた。
噂では実家のある田舎へ帰ったらしい。

でも絶対にそんな事あるはずがない。

舞は強い意志でずっと隼人を見てると言ったのだから。

 

 

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Vol.8 「便箋」/北海ミチヲ。

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拝啓 

 

依子様

 

季節がすっかり春めいてきましたね。いかがお過ごしでしょうか。

今年の春は、例年にない暖冬のためでしょうか、あの家に通う道の河津桜がいつもより早咲きに感じます。

目には鮮やかなピンクが飛び込み、春を感じているのに、躰はダメですね。春がピンと来ません。厳しい冬を過ごせばこそ、春はより鮮やかに、そして温もりと共に感じるものなのかも知れません。

 

君が植えていったツルハナシノブが、今年も庭で芽吹いてきています。去年よりもひと回り大きくなって、紫の色味が深くなりそうな気配がしています。結局、あの家には月に2度ほどでしか通えてません。

〝ツルハナシノブは、放っておいても大丈夫だから。〟

そんな君の言葉は、今の私を予感していたんでしょうかね。

 

仕事は、相変わらずです。

静かな日々を重ねています。

 

以前みたいに怒鳴ったり、イライラしたり、あれは、あれで一生懸命だったのだと思うのだけれど、今になって思えば、役割の中の小芝居みたいなものだったのだと思うことがあります。ああいうものを人生の全てだなんて思ったまま命を終えるのも、それはそれで幸せなのかもしれないけれど、別な生き方を知ってしまうと、妙に以前の自分が陳腐に見えてきます。

 

新しい仕事場は、以前より通いの時間が短くなりました。朝起きる時間は変わらないので、むしろ朝の時間を持て余しています、何とかしないといけませんね。

職場は、あれから何度か移転したけれど、ここらで落ち着く感じがします。先日、社長さんが話してました。私より二十も若いのに大したものだと思います。若さとは、こういうものなんだなと気づかされます。若さの真ん中にいる時は、希望や欲ばかりで何も気づかずに走ってました。そういう意味では、先程、私の人生が陳腐だと書きましたが、それなりに馬力はあったのかもしれません。

 

いずれにしても静かな日々が続いています。

 

そういえば、先日、社長さんが、突然、訪ねて来ました。新しい炬燵を置いていってくれました。〝貰い物ですけど良かったらどうぞ〟って。君の買った炬燵も、もう随分年季が入っているから、ちょうどよかったです。炬燵のスイッチを入れますと、あのオレンジ色の灯りがボーッとついたり、消えたりしてましてね、あー、もうそろそろダメかなって思ってました。温かい冬だと言っても、朝晩は結構寒い日もありまして、こういう時は、炬燵の温もりはありがたいものです。

 

社長さんの話をもう一つだけ。

 

この前、先代が珍しく会社を訪ねて来ました。随分、久しぶりでした。社長さんは、今でも、先代には気を遣っていて、先代の顔を見るや否や、そそくさと〝営業行ってくるはんで〟って。軽トラ、ブンブン言わせて出掛けてしまいました。

 

先代は、私を見つけるなり、〝おお、しんちゃん、体の具合はどう?〟って、あまりに気軽に声掛けるものだから、最近入ったパートの正子さんあたりは、びっくりしちゃいましてね。〝大社長、もう大丈夫ですよ、その節は、色々と心配かけました。〟って返しました。

依子さんのこと、随分、気にかけてたから、大社長は。先代の頭もすっかり白髪になってね、随分、年を取ったものだと思いました。

 

さて依子さん、今日は一つご報告があります。

 

先代からも随分、以前から迫られていた縁談の件、やはり断ることにしました。

 

私は、先代みたいにパワフルでもないし、そもそもそんな気にもなりません。男にも老いというのがあるんだなと、最近はしみじみ感じています。

聞けば、お相手は、確かに素敵な人かも知れません。でも、私にとって、今の日々もそれ程悪いものではないのです。

 

偶然に残った古い手紙や、懐かしい写真たちと過ごす日々は、ある意味、私に残された最後の豊かなひと時なのです。

 

やはり、紙はいい。

 

多少汚れても、破れたりしても、掌の中にきちんとあの時の風の薫りや交わした言の葉の数々が蘇ってくるものです。手紙にしても、か細い文字の、一画一画に確かな肉筆感があって、そこに確かに依子さんが書いたんだって記憶が残っていますから。

 

それだけでも十分です。

 

デジタル世代の息子たちは、笑っているかもしれないですけど。

 

だから縁談は断りました。

 

あの日、私たち家族は、大きくその形を変えてしまったけれど、壊れてしまったわけではないのですよ。


少なくとも、私はそう思ってます。

 

依子さんや息子たちと、今は離れているだけなんだと。

 

私は、そう思ってます。

 

最近、少し考え方を変えました。むしろ私が依子さんから離れているんだと。何か悪いことでもして、監獄に入っているんだと考えるようにしています。

そうすると、色んな不自由なことの多くも、実はありがたいことなのではないのかと思うのです。

 

自由に歩き、勝手に寝起きをし、好きなものを食べて、たまには表通りの郵便局のあの赤いポストの角を曲がった、古めかしいバーなんかにも行って、ママ自慢のカクテルなんかをいただいたりもしています。

ああいうものはよくわからないんだけど、最初、ママからそのお酒の名前を聞いた時、てっきり息子たちの名前かと思いました。

 

私がそう話すと、ママは、笑いながら、少し目頭に涙を溜めてました。

 

それ以来、いつもそれをいただいてます。スッキリとしていて、少し酸味がありましてね。何よりグラスの向こうが見通せる透明感が何より心地いいです。

 

美味しいです。

 

還暦を迎えて、田舎育ちであまりそういう洒落たものには縁がなかったものだから、余計に新鮮に感じてしまいます。

 

おそらく、この名前は生涯忘れないでしょう。

 

みんな色んなことを思い出すんでしょうね。歳を重ねるということは、楽しいことも沢山あるけれど、実は、悲しいことを心の奥底にじっと沈めるということなのかも知れないですね。

この監獄生活も考え一つで自分と見つめ合う、いい時間なのでしょう。実際に入ってしまったらこんな呑気なことを言えないのかとは思いますが。

 

いずれにせよ、私の今は、静かで、自由で、そして信じる希望に溢れる日々なのです。

 

今年も慰霊祭には行きません。

隣の相田さんは、昨年から慰霊祭に行ってるそうです。

 

でも、私は、今年も行かないつもりです。

 

私にとっては、何年目だろうがあまり関係のないことなんです。

私は、依子さんと、息子たちを待っているだけなのだから。

 

依子さん、仁、そして愛犬ニックへ。

 

令和二年 ある晩冬の午後に。

信二郎より

 

 

2020年現在、この国には、災害やその他の事情で行方不明になっている人は年間85000人を超えるといいます。

その数だけ信じて待っている人がいます。強い希望を心の奥深く、今にもこぼれそうになる悲しみと背中合わせに抱えながら。

 

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Theme Ⅲ〝強い意志、いつも希望を捨てないあなたへ〟

コロナウィルスの影響で不幸にもお亡くなりになられた方、感染された皆様方には、心

よりお見舞い申し上げます。こういうことが起きるといつもの緩やかな日常がとても幸

せなことなんだと思います。

しばらくお休みをいただいていたOne Shot Storiesも再スタートです。

2月のテーマカクテルは、「ジントニック」です。

カクテル言葉は、「強い意志、いつも希望を捨てないあなたへ」。

ジンをベースにしたカクテルで、最もポピュラーなもののひとつかも知れませんね。

昔、熱帯のイギリスの植民地でトニックウォーターは健康飲料の一つでした。そこに、

ジンを入れてみたのが、その始まりとか。レシピがシンプルな分、バーテンダーの技量

で微妙に異なるのも楽しみ方の一つですね。

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Vol.7 「ミドリさんはお休みです」     /浦霞林檎

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客が帰ったカウンターの、小さなキャンドルを吹き消して、雛子は窓辺に立ちました。
東京の夜景のきれっぱし。街の明かりが瞬いています。
どこにあるんだろう、私の場所は。
私を受け入れてくれる光はどれなんだろう。

 ― やれやれ、ジプシー。7軒目の物色かい?
ガラスの向こう側、白い腹を見せて、いつものヤモリが現れました。

 ― そんな若くて、職場はなんと6軒目。ジプシーバーテンダーここにあり?
 ― うるさいわね。放っておいてよ。
 ― そそっかしくてお調子者。勝気なくせに凹みやすい。うじうじしたらすぐ辞める。まずは性格変えないと。
 ― うるさいってば。もう消えて。
 ― はいはいサラバ。しばしの別れ。だけど、とっととそこを片付けたほうがいいよ。もうすぐ次のお客が来る。

やってきたのは、口髭の常連客です。カウンターを見て、
「あれ?ミドリさんいないの?」と落胆した顔をしました。
「すみません、ミドリさんは、お友達のお祝い事でお休みいただきました」

本当なら臨時休業するところを「雛ちゃん、いい機会だから一人でやってみない?」とミドリさんが言ってくれたのです。
雛子は二つ返事で張り切っていました。
でも、全然うまくいきません。お客さんたちは、ミドリさんがいないとわかると、つまらなそうな顔をして、お代わりもせずにソワソワと帰ってしまうのです。

「えーっと、じゃあ、ビールをもらおうかな」
この常連さんも、いつもはカクテルを注文するのに。
わたしが頼りないのかな。雛子は内心がっかりしながらビールを出しました。

「急に寒くなりましたねえ」
「ああ、そうだね」
「紅葉も進みそうですね」
「そうだね、進みそうだね」
会話もさっぱり盛り上がりません。

 ― は、は、は。はーがつくものなーんだ
ヤモリがへんな節で歌います。

は?雛子はハッと気づいて、口髭の客に灰皿を出しました。
「や、ありがとう。雛子さん、2回しか会ってないのによく覚えててくれたね」
名前を覚えていてくれた!雛子はたちまち舞い上がりました。
「覚えていますよ。前回はギムレットを召し上がっていらっしゃいました」
「好きなんだよ、ギムレット。先輩に連れられて、最初に飲んだカクテルがギムレットでねえ。
ああ、やっぱり飲みたくなった。ビールの次に作ってもらおうかな」客は笑顔になりました。
「はい。お作りしますね」

ヤモリに助けられたわ。悔しいけど。

ドアが開いて赤いドレスを着たお客がやってきました。

「あら、ミドリさんいないの?」
「今日はお休みなんです。すみません」
「いいのよ。ひとりで大変ね。ジャックローズをいただけるかしら」
「はい」

ジャックローズ?アップルブランデー、ライムジュース、えーっと、

 ― グレナデンシロップ!
 ― わかってるわよ。黙ってて。
 ― はいはいサラバ。しばしの別れ

ジャックローズを出すと同時に、4人連れの客が入ってきました。すでに酔って、賑やかに笑い合っています。
ハキハキと注文を受け、手際よくお酒を作りながら、雛子は嬉しさを噛みしめていました。大丈夫。上手くいってる。

「あれ?ビールじゃないよ。俺はジントニックを頼んだんだ」
4人連れの一人が文句を言いました。
「ビールって…」
「やだなあ、ジントニックだよ。なあ、俺、ジントニックって言ったよな」
酔った連れ達は「あー、言った言った。言ったんじゃないかなあ」と合いの手を入れます。
「失礼しました、すぐに作りますので」

雛子はカウンターに戻り、ビールを捨てました。あの人、絶対、ビールって言ったのに。
新しいロンググラスを出そうとした手元が乱れ、グラスが落ちて派手な音をたてて割れました。
店に一瞬沈黙が流れ、雛子は真っ赤になって「し、失礼しました」と小さな声で謝りました。 

「おいおい、大丈夫かよ」4人連れの客たちから失笑がもれます。
ガラスを片付けないと。違う違う、ジントニックが先。
パンプスが大きな破片を踏みつけ、ジャリっと嫌な音をたてました。

 ―ジプシー、落ち着け。たいしたことじゃない
ヤモリが声をかけますが、もう、雛子の耳に入りません。

ドアが開いて、二人連れの客がきました。
「なんだ、ミドリさんいないの?じゃあ、また来るよ」
ひきつった笑顔で見送りに行き、急いでジントニックを作って客に頭を下げ、
床のガラスを掃き集めようとモップを手にした時、口髭の客と目が合いました。
ビールはとっくに飲み干されています。
あ!ギムレット…!
放したモップが倒れるのを掴もうとした手が、出しっぱなしにしていたボトルを薙ぎ払い、
アップルブランデーの強い香りが店中にたちこめました。

最後の客を送り出して、ミドリさんに今日の報告をしようとしたけれど、電話は繋がりませんでした。
店の掃除を始めたら、我慢していた涙がぼろぼろこぼれました。
やっぱり、ここは私の場所じゃないんだわ。張り切っていた日がめちゃくちゃになるなんて、きっと縁がないのよ。
雛子はまた窓辺に寄りました。また探そう。あの灯のどれかに私の居場所があるはず。 

 

 ― ジプシー、まだジプシーでいる気かい?ひとつの所で頑張ることが一所懸命って、知らないかなあ。
 ― さすがヤモリね。家守らしいご忠告。そうやってずーっとこのお店を守ってきたってわけね。私は行きずりのバイトの1人よ。もうお別れね。
ヤモリは黙っています。

 ― 何とか言ったらどう?さよなら?バイバイ?さらば?私がいなくなったらセイセイするでしょ。
 ― 雛子、ここでもいいんだよ。
ヤモリの声が変わりました。

 ― 雛子はいつだって、いるべきところにいるんだよ。雛子がいるところが正しい場所なんだ。
 ― え?

懐かしい声。いつも、「それでいいんだよ」って言ってくれた声。

 ― ここだと思ってやってごらん。そうすればきっと上手くいく。
 ― …ずっと、見ていてくれたの?
 ― 約束しただろ。さあ、もう大丈夫だね。今度こそ本当の、しばしの別れだ。見守っているよ。ずーっとね。

 

電話が鳴りました。ミドリさんがかけ直してくれたのです。
「そう。大変な一日だったね。で、割れたグラスで怪我しなかった?」
「えっ?いいえ。わたしは大丈夫なんですが」
ミドリさんは笑って続けました。
「一日の損害が、グラスが1個とアップルブランデーがほぼ1本。ビールが1杯と新規客4人。でもね、記録はまだまだ破れないわよ」
「誰の記録ですか」
「ゆっくり聞かせるわ。お楽しみに。また明日ね」
「はい。また明日」

また明日。また明日。電話を切ってからも、雛子は祈るように繰り返しました。

気が付くと、窓は、壁と似た色のカーテンで閉ざされ、カウンターにキャンドルが一つ、灯されていました。

 

おわり

 

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Vol.6 「HACHI」 /北海ミチヲ。

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七江は、この古風な自分の名前がどうも昔から好きになれない。
最近ではテレビに出そうなほど珍しい7人兄妹の末っ子、父が東京に単身赴任していたときの子供で、父はよく、〝では、お江戸へちょっくら行ってくる〟が口癖だったらしく、七江とついたと聞いている。
 
一昨年の母の葬儀の直会の席で一番歳が近い姉が
「しかし、七江の名前は随分と簡単につけたものね?」
と話すのを聞いた一番上の兄が言った。
「母さんに聞いたことあるんだが、さすがに7人目はもう名前を考えるのも嫌だったらしいな。」
暗かった直会の席が少し沸いた。
 
1番上の兄はいつもそうなのだ。まるで私を目の敵にでもするように傷つくことを平気で話す。
まあ、18も年が離れていると、もはや兄というよりは、叔父のような存在に近い。
最近は、髪も随分真っ白になり、ますますそう見える。
七江は、我関せずの顔をして寿司桶の鮪の赤身をほおばった。
強がってみせていたが、母の葬儀で悲しみにくれているところへ追い打ちをかけられた。
雲が厚くどんよりとした、今にも雨になりそうな日だった。
 
 
生前の母は、そんな素振りを見せることもなく、むしろ七江のことを一番可愛がっているはずだと、自分自身は確信していたのだが、それが少しだけ揺らいだ。
 
 
父は、転勤が多い人だった。置き薬の会社に勤めていたという。全国各地への単身赴任が多く、子育ては母が一人でやっていたようなものだ。
自分の中の記憶では、家族はいつも母と6人の兄や姉たち。
たまに父が帰ってきていた。
でも、その時は、上の兄姉たちに父を独占され、自分のことを構ってもらった記憶が薄い。
2,3日だけいて、また父はいなくなった。
 
或る時から、父は帰ってこなくなった。
 
というのも赴任先で不慮の事故に遭い、帰らぬ人となったのだ。
七江が6歳の時だった。
だから七江には、父の父らしい記憶がない。
七江の中には、どこか常に男性に対する不十分な感覚があった。
 
七江は、去年四十路を迎えた。
世間ではアラフォーとか言うらしいが、あまり実感は無い。
大学時代の友人たちの中では、正直一番保存状態がいいと思っているし、そもそも独身であり、それと勝手気ままな暮らしているせいか、妙な疲労感やストラスらしいものがそもそもない。その時々で好きな仕事をやりながら、まずます充実している毎日だと自分では思っている。子育てをしている親友たちもいたが、最近はあまり連絡もとっていない。
 
大学の同窓会にも何度か行った。行けば放射線技師だの、設計事務所をやっているだの、上等なスーツに身をまとった男たちが色目線で何かと声をかけてくるが、この類を相手にしたことはない。
といいたいところだが、一度だけミスったと思っている男がいた。
 
大学時代に同じサークルにいた藤城という男だ。
少し高飛車で、女性に手が早く、それでいて一見スマートに見えるところが、なぜか好きだった。そんな藤城は、いつも違う女を連れていた。一度くらい、そのラインナップに加わってみたいという好奇心を持ちながらいたのだが、いつのまにか藤城は、外資系の会社に就職して海外勤務になってしまった。
 
あの同窓会でミスった日の翌朝、藤城が先にホテルの部屋を出た。
〝じゃあ、また今度。またね。〟といいながら、あの〝またね〟とはいったい、いつのことなのだと思いながら、あれから10年、いや20年近いか…とにかく時間が過ぎている。
 
七江は、なぜあんな昔のことを思いだしているのかな…とか思いつつ、
夕暮れの車窓に映りこむ自分の顔を見た。そして函館駅で買ってきたビールのプルトップを開けた。
 
〝プシュッ!〟
 
1両だけのディーゼルカー
丁度、車両の中間あたりのボックスシートに身を置いていた。
どんどん高さを上げながら高架線を走るレールの継ぎ目の音が心地よかった。
 
函館から乗った時は、そこそこの客がいたが、途中駅で、ひとり、またひとりと降りていった。
 
誰も乗ってこなかった。
 
だから、今は一人きり。
白熱灯が、自分の小さな影を作っていた。
 
思い出した。
 
なぜ藤城のことを思い出したかを。
 
さっきまで隣のボックス席の女子高校生らしい2人が、好きな先輩の話でキャッキャいいながら、膝の上に開いていた参考書もそのままに、夢中になって話していたのだ。
〝こういう時期あったわよ、私も。〟
とか思ったあたりからだ。
 
ひとりの旅は、不思議な思いが重なるようにめくるめくものだ。
頭の中に放浪者みたいなのがいて、今、考えていることの出発点すらわからなくなる。
 
 
七江は、勢いよくビールを喉に流し込んだ。
 
ディーゼルカーのエンジン音が唸り始めた。ここから先は、少し勾配が強くなるらしい。この先が、有名な大沼公園だ。道南屈指の観光地。昼間なら駒ヶ岳を向こうに大沼、小沼が広がる北海道らしい風景が見えたはずだ。
 
そういえば、大沼という男とも3年ほど付き合った。
結構、それこそ湖みたいな広い心に安らぎを覚えたものだ。
丸の内に本社のあるデベロッパーに勤める大沼は、自分をひとしきり抱いた後、ベッドの中でいつも関わっている大きなプロジェクトの話をとくとくと七江にした。
しかし、七江は、そんなビルだの開発だのという話には、あまり興味がわかず、後半は、その声を子守唄替わりにして寝入ったものだ。
一緒に暮らして1年目の夏、大沼が宮島へ出張したとき買ってきた〝 木しゃもじ 〟のしまい方のことが原因で七江がマンションを出ていくことになった。
些細なことだった。意外に小さな男だったのだと、サラッと忘れることにした。
 
秋の夕暮れのホーム、駅名標の「大沼」という文字に温かいライトが当たっていた。
シーズンオフのホームは、ひっそりとしていた。
 
函館本線はこの駅で二手に分かれる。乗り換え列車のアナウンスが入る。
距離は短いが駒ヶ岳を周回するように勾配がきつい山側の路線と
距離はあるが、緩やかな海側の路線。
ここで乗り換えをしようか、七江は迷ったが結局このままでいることにした。
 
七江は、35歳の時、わずか10日間に二人の男から偶然にも気持ちを伝えられるということがあった。
 
砂原と森という、同じ職場で同期入社の二人だった。
年齢は、七江よりも1つ下。
 
 
はじめて声を掛けられた時、七江は、それほど親しくもない男たちのアプローチにただただ驚くばかりだった
砂原は、思慮深く、穏やかな男で、森は、どちらかというと強引で力強くイケイケなタイプだ。
 
その後、森と砂原は、結果的に七江を獲り合うことになった。
 
七江は、そんな様子を少しだけ面白がりながら相手をしていた。
その様子は、まるで海獣の〝覇権争い〟のようにも見えた。当時七江は派遣社員だったので、ある意味で本当に〝派遣争い〟だったなと、ひとり、クスっと笑ってしまった。
車窓に映る、にやけ顔に、少しハッとした。
 
七江にすれば、多少、見える風景は違ったかも知れないが、正直どっちでもよかった。
結局、多少時期が重なりながら、森、そして砂原の順番で、2人とも付き合った。
 
森のプロポーズは、早かった。付き合い始めて3ヶ月目のことだった。
七江は、そのことを砂原に相談した。
砂原は、森の悪評を七江に話しながら、自分の気を引こうと頑張っていた。
 
でも、2人とも選ばないという選択をした。
森のプロポーズを断り、砂原ともいつのまにか終わった。
 
後にも先にも、あんな経験はない。
自分の中では、いわゆる人生MAXのモテ期かも知れないと思った。とはいえ、あれがMAXだと思うと少し残念な気持ちにもなる。
 
海と山、二手に分かれた線路は、このディーゼルカーの終着駅で1つになる。
そこは、海岸沿いにある小さな駅だった。
夜の町は静まり返っていて、灯がほとんどなかった。七江には、街が死んでいるようにさえ思えた。
 
暗闇に波の音だけが、少し聴こえていた。
 
七江は、今流にあさっりと検索に頼るのをあまり好まない。出会った人に聞いたり、少しペンキが剥げた案内板を見ながら、道標を探すのが好きだ。特に、旅はずっとそうしている。
 
駅員に聞くと、ここで上りの列車に乗り換えないと今夜中に函館には戻れないという。
もう少し遠くまで行けると思っていたが、七江の見当違いだったようだ。
砂原ならきっと思慮深く行程を組み、森なら、強引にもう少し先まで連れて行ってくれたかも知れない。
と、ホームのベンチに座りながらぼんやりと思った。
 
相変わらず、波の音だけが、背後の防波堤の暗い底から聞こえていた。
 
明日は、函館での母の七回忌と父の三十三回忌だ。
子供たちや親戚が集まる。
またあの兄や姉達に会うと思うと気が重かった。
 
せめてもの気晴らしにと、七江は、1日早く午後空路で函館入りし、この半日間の短い旅を思いついた。半日なんてあっという間に終わるんだと、久しぶりに自分の中に時を綴じこんだ旅だった。
 
乗ってきた同じディーゼルカーが、今度は、小さな海岸沿いの駅から、海回りで再び大沼を経由して函館に戻る。
 
 
そういえば、大沼に一度、手紙を出した。
理由は忘れてしまったが、当時結婚でもしたかったのだろうか?
彼からの返事はなかった。
そもそも届いているのだろうか、あの手紙。
差出人を名前だけにして住所を書かないで出した。
ああいう手紙は、どうなるんだろうか?
受取人か差出人が取りに来るまで郵便局の片隅のブルーの籠の中にひっそりと待っているのだろうか?
迷える恋文か…。
自分は、そもそも返事なんて期待していなかったんだと今になって再認識した。
 
窓を少しだけ開けてみた。
頭を冷やすような風が空いた窓の隙間から平べったく入ってきた。
 
大沼を出たディーゼルカーは、今度は来た時の高架線ではなく勾配のきつい線路を下っていくらしい。
暗闇でも、確かのその違いを感じ取ることができた。
左側の窓の向こうに函館湾の独特のカーブと、その奥に函館山が見えていた。
その裾野に灯が宝石のように薄く広がっていた。
いわゆる有名な夜景に対して、これを裏夜景というらしい。
恋人たちのデートスポットとしても人気なのだそうだ。
 
斜め左後ろのボックスシートには、客がひとり。
ビジネスマン風な几帳面そうな男だった。
スマホを覗きながら、何度も小さなため息が漏れていた。
 
「すいません」
突然、男が背後から声をかけてきた。
「はい?」
七江は、驚きながらも冷静に反応した。
 
「この先の新函館北斗駅から、まだ東京方面に戻れる新幹線があるかどうかってわかりますか?」
 
「はあ…、」
 
「ああ。いや、スマホの電池きれちゃいまして…」
 
七江は、延々と続いていた思考を一先ず停止させ、自分のスマホで素早く調べた。
 
「あー、無理そうですねー。」
 
「やっぱり、そうでしたか。」
男は、通路に立ったまま、深い落胆の表情を見せた。
 
「東京?ですか?」
七江は、そんな気の毒な男の表情を下から見上げながら、思わず自分からアクションを起こしてしまった。
 
「いえ、埼玉です。」
「???」と思った瞬間、七江の底から笑い声が聞こえてきた。
 
「埼玉、おかしいですか?」
 
「いえ、ごめんなさい。旅先で埼玉の人は、必ず東京です。って答えるって話を思い出したもので。ホント、失礼しました。」
 
「そういうことですか、いいんですよ、埼玉は埼玉ですからね。何も間違ってないですし。」
  
「失礼ですが、あなたは函館の方?」
  
「いいえ、高校まではいましたが、その後は東京。ほとんど帰ってこなかったので、街の中とかも随分と変わっちゃって、記憶も曖昧で。故郷とは思えないほどです。」
 
「なるほど。そうでしたか、私はゆっくり函館も寄らず帰る予定でした。大沼のホテルで打合せだったんですけどね、すっかり仕事が伸びてしまって・・・。」
 
「予定通りにいかないことってありますよ。そのホテルに泊まられれば良かったのに…」
 
「確かに!でも、全く考えつかなかったです。ああ、でも金曜の夜ですし、相手先にも悪いかなって。暇そうでしたけどね…まあ、根拠のない自信というのか、勝手に東京に戻れるはずと決めてました。だって新幹線ってそんな感じしませんか?」
 
「面白いこといいますね。」
七江は、少し開けていた窓を静かに閉めた。そして、男をさりげなく自分のボックスシートの斜め前の位置へ促した。
 
男は、大野といい、東京から日帰りで大沼への出張を命令されたのだが、飛行機が苦手で新幹線ならという条件でやってきたという。
そして、今夜は諦めて函館に泊まることにして、この週末は、初めての函館観光ということで割り切って、日曜の夜に今夜乗り損ねた最終の新幹線で帰ることにするという。
 
七江は、私は、明日の昼は法事があり、それはそれは気が重いこと。そして明日、土曜の最終便で帰る予定だと話した。
 
「七江さん、どこか函館で絶対に行くべき!とか何かないですか?」
 
「そういうのって、それこそググればいいじゃないですか、ご専門でしょ?」
 
「こういうのは、人の情報が一番なんですよ。僕はそれを信じてます。」
 
「もし、一軒だけご紹介するなら、私も行ったことがないのだけれど、十字街に隠れ家みたいなオーセンティックなバーがあるの。新宿の馴染みの店のバーテンダーさんに紹介されたんですよ。」
 
「いいですね、そういうの。東京の情報なのか、函館の情報なのか、わからないけど」
大野は、小さく微笑んだ。
 
「そこ、行かれてみてはどう?」
 
「では、どうでしょう?明日の夜、あなたが良ければ、そこで一杯ご馳走させてくださいよ。最終便まで。」
 
「まあ、気が向けばねー。」
七江は、わざとそっけなく返事をして、外を見た。
函館山の展望台とテレビ塔が、ぐっと近くなっていた。
 
「函館着きましたね。」
大野が、何か吹っ切れたように明るく自分のビジネスリュックを背負った。
 
「はい、行くときと違って、話しているとあっという間でした。」
七江も自分の小さなバックを肩にかけた。
 
「では、しばしのお別れです。明日バーで待ってますよー」
大野は、笑いながら一足先にディーゼルカーを飛び出していった。大野は、一刻も早く充電しないと大変なことになるかも知れないと言っていた。
 
 
 
翌日の函館の空は、秋の空が澄み渡った法事日和の天気だった。
墓石の前に、兄姉、少ない親族が並んだ。
一番近い姉が七江に向って口を開いた。
「しかし、なんで父さんと母さんの暮石は、一緒じゃないのかしらね?」
「さあ。」
七江は力ない返事をした。
「それよりさあ、七江はいつまでそんな放浪者みたいな生活してるのよ。早く結婚するとか、老人ホーム決めるとかしなさいよ。呑気に生きててムカつく位に羨ましいわ」
一番上の兄が、引き継いだ。
「そういえば、母さんは、8人目の子供を父さんと約束していたんだってな。〝 八重 〟って名前まで決めていたらしいな。俺も最近、正人おじさんから聞いたんだけどね。」
 
でも、結局、父と母のその思いは叶うことなかった。
 
兄が続けた。
「多分、母さんは、七江と合わせて、ふたりで〝 七重八重 〟にしたかったんじゃないかと思うんだよ。」
姉が受ける。
「花が沢山ありそうないい名前じゃない。ねえ、七江ちゃん!」
姉が小さく七江を小突いた。
 
七江は、もし、その妹がいたら、きっと私の人生はもっと違う風景だったかも知れない。そして自分の名前にもきちんと意味があったのかも知れないと、ほくそ笑んだ。
 
父と母の墓石が分かれているのは、晩年、〝家族や孫たちが沢山増えて、みんなでここのお墓に入ったら、1つの墓石だと窮屈でしょ?〟って、母はわざと墓石を分けたらしい。というのがもっぱらの話だが、七江はそうは思っていない。仕事とはいえ、ずーっと単身赴任で過ごした父への小さな怒りを母がぶつけたに違いないと七江は思っている。七江は、そんな母に親しみを覚えた。
 
 
 
その夜、七江は、十字街のバーを訪ねた。
大野は来ていなかった。
 
〝まあ、こんなもんよね、〟とか思いながら、大好きなジプシーを脇に置き、初老のバーテンダーと昨日の小さなひとり旅の話をした。
 
「あのコース、回ってきたんですね?きっといいことありますよ。」
 
「どうしてですか?」
 
「お客さん、知らないで行ってきたんですね。」
 
「はい」
 
「最近、8の字を描くパワールートだなんて言われてます。なんか縁起良さそうじゃないですか。あの線路。」
 
壁に掛かった北海道の地図に目を移した。
そして、改めて地図を見ると、確かにそういう路線図になっていた。
それを知っていたら、もう少し、いい妄想をしながら旅していたのに…と七江は少し悔やんだ。
 
次の瞬間、重い木製のドアが音をたてて開き、コツン、コツンと男物の革靴の音が店の中に響いた。
 
 

<Bar Up to You>
新宿西口、路地裏の雑居ビルの7Fに隠れ家のように佇んでいる小さなBar。

東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
tel : 03-5322-1112

営業時間:17:00~25:00  定休日:日曜日

夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。

このブログは、毎月1つの酒をテーマに、当店のゲストの皆様方が、一編のストーリーを作り、投稿されているブログです。

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Vol.5 「Depart again」 /清水 楓

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「お待たせ。ごめんね、急に仕事入って」

「気にするなよ、いつもの事だろ」

「そうよね、いつもの事だよね」

笑顔を作ったが、玲はいつもの事と言われて少し落ち込んだ。
そう、毎回と言っていい程、翔との待ち合わせには遅れていた。
キャンセルになった事も一度や二度じゃない。

翔は優しい男だ。小言を言うわけでもなく
玲の事を理解してくれている。
そう思って甘えている所もあったが、さすがに気は引ける。

新宿から翔が住んでいる中央線沿線のとある駅へ。
帰り道にある小さな行きつけのレストランで、赤ワインとイタリアの家庭料理を味わう。
シェフはまだ若いのに腕は確かだ。
何を食べても何故かほっとする。

「来週の予定、大丈夫か?その時だけはちゃんと来いよ」

「分かってるよ、今から調整してるから大丈夫!のはず…」

「おいおい」
と翔は笑った。

3杯目のワインを飲み終える頃に翔が少し改まって言った。

「前に話したけどあの話、本決まりになったよ。このタイミングでって思うよな。でも期間は1年って決まってるし帰って来てから式はやるって事でいいよな?」

「そっか。あたしは大丈夫だよ。式場も決まってるし、一人でも進められることは地道に準備進めとくよ。来週の打ち合わせは二人で行けるの最初で最後だから絶対に遅れない」

「頼むよ」

「その日は気配消しておくわ。それに翔がいない間も悪さはしないで大人しく待ってまーす」

「なんだよ、投げやりだな」

「そんな事ないよ。離れる前にちゃんと私達の明るい未来を約束してくれてるんだもん、何の不満もありません」

玲は少しちゃかして笑った。

翔は1年間、現場の管理指導者としてマレーシアへ行く事になっている。
正直、1年なんてあっという間だと思っている。仕事も忙しいし、式の準備にもなかなか時間が取れそうもないし、そのくらいの長いスパンで見ないと本番で疲れ果ててゲッソリしている気がした。
目の下の黒い花嫁なんて最低だ。

それにマレーシアならそれほど遠くもない。何度かは行けるはずだ。
そう思うと少しは楽になった。

 

 

 


どうしよ。約束の時間はとうに過ぎている。

職場を出ようとした時に呼び出された。
玲は小児科の医師だ。
急変した患者がいて、処置に追われた。
幸い安定してやっと一息つき、我に帰りスマホを手にすると、翔からのメッセージは10件。着信は15件。

慌てて、ごめん、すぐ向かうとメッセージを入れ病院を飛び出した。
時間帯を考えるとタクシーより電車の方が早そうだ。
人をかき分け走るが新調したヒールが煩わしい。

2時間遅れて新宿の高層ホテルのロビーに駆け込む。辺りを見回すと、座り心地の良さそうなソファーに翔は座っていた。

「翔!本当にごめん!急変した子がいて」

「ああ。仕方ないよな。玲に落ち度はない」

「こんな日に。ごめんなさい」

「分かってるよ。分かってる。でもさ…」

翔は話すのを止めて下を向いた。
言いたい事は嫌と言うほど分かる。
何を言われても謝ることしか出来ない。

しかし翔はその事に関しては何も言わずに
「今日は帰るよ。送れなくてごめん」
とだけ残し、1人ロビーを出ていった。

怒ってない訳がないのに。
来週からマレーシア行くんだよね。
二人で最低限の事は決めたかったよね。
もう時間も取れないし。
自分が悪い。無理やり断って他の医師に頼めば良かった。
いや、そんな事出来ない。
出来る筈もない。
あの子の命と自分の結婚式、重さは明確だ。比べる方がおかしな話だ。

でも。人の心にも限界はある。
攻めることなく帰っていった翔の気持ちを考えると居たたまれなくなった。

玲は肌寒くなった街を歩き、このまま翔には会えない様なざわめきを感じ涙が溢れた。
気付くと行きつけのbarのドアの前にいた。

「こんばんわ」

「いらっしゃいませ。こちらのお席へどうぞ」

ミドリさんは玲を一目見てカウンターの端へ通してくれた。他のお客様からは見えにくい。

「ミドリさん、私ちょっと失敗しちゃった。色々考えると眠れそうにないな」

「それならピッタリのカクテル作りますね。きっとよく眠れると思います」

程なくカウンターに置かれたグラスの中は黄金色だった。
キレイと呟き、一口飲むと全身の力が抜けて行く様だった。

「彼とね、もう会えないかも」

「会えなくていいんですか?」

「わからないな。今はわからない」

「それなら、しばらくの間距離を置いてみるとか?」

「え?」

「少し離れて考えてみるときっとわかりますよ。大事かそうじゃないか、どうしたらずっと大切に想いあえるか」

「なんだか全部見てたみたい」

「出会ってお付き合いして想い合っても他人ですよ、100のうち100ともピッタリ!なんてあり得ない。いつも一緒だと、どこか甘えたりこのままでいいって勘違いするんじゃないですか?」

「そうだね。幸か不幸か来週から1年間離ればなれになるの。多分彼は私に会わずに行く。でもしばらくして私の答えが出たら話し合ってみる」

「それがいいかと思います。そのジプシーに使っているリキュールは薬用酒なんです。体にも心にも色んな効果があるかも知れませんよ」

ミドリさんはそう言って笑顔を見せた。

玲はしばしの別れのあとでまたスタート出来る事を願いながらジプシーを飲み干した。

 

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東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
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営業時間:17:00~25:00  定休日:日曜日

夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。

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