One Shot Stories

新宿の路地裏のBar Up to You が贈る ~1杯のお酒が紡ぐ、ちょっといい話~

Vol.7 「ミドリさんはお休みです」     /浦霞林檎

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客が帰ったカウンターの、小さなキャンドルを吹き消して、雛子は窓辺に立ちました。
東京の夜景のきれっぱし。街の明かりが瞬いています。
どこにあるんだろう、私の場所は。
私を受け入れてくれる光はどれなんだろう。

 ― やれやれ、ジプシー。7軒目の物色かい?
ガラスの向こう側、白い腹を見せて、いつものヤモリが現れました。

 ― そんな若くて、職場はなんと6軒目。ジプシーバーテンダーここにあり?
 ― うるさいわね。放っておいてよ。
 ― そそっかしくてお調子者。勝気なくせに凹みやすい。うじうじしたらすぐ辞める。まずは性格変えないと。
 ― うるさいってば。もう消えて。
 ― はいはいサラバ。しばしの別れ。だけど、とっととそこを片付けたほうがいいよ。もうすぐ次のお客が来る。

やってきたのは、口髭の常連客です。カウンターを見て、
「あれ?ミドリさんいないの?」と落胆した顔をしました。
「すみません、ミドリさんは、お友達のお祝い事でお休みいただきました」

本当なら臨時休業するところを「雛ちゃん、いい機会だから一人でやってみない?」とミドリさんが言ってくれたのです。
雛子は二つ返事で張り切っていました。
でも、全然うまくいきません。お客さんたちは、ミドリさんがいないとわかると、つまらなそうな顔をして、お代わりもせずにソワソワと帰ってしまうのです。

「えーっと、じゃあ、ビールをもらおうかな」
この常連さんも、いつもはカクテルを注文するのに。
わたしが頼りないのかな。雛子は内心がっかりしながらビールを出しました。

「急に寒くなりましたねえ」
「ああ、そうだね」
「紅葉も進みそうですね」
「そうだね、進みそうだね」
会話もさっぱり盛り上がりません。

 ― は、は、は。はーがつくものなーんだ
ヤモリがへんな節で歌います。

は?雛子はハッと気づいて、口髭の客に灰皿を出しました。
「や、ありがとう。雛子さん、2回しか会ってないのによく覚えててくれたね」
名前を覚えていてくれた!雛子はたちまち舞い上がりました。
「覚えていますよ。前回はギムレットを召し上がっていらっしゃいました」
「好きなんだよ、ギムレット。先輩に連れられて、最初に飲んだカクテルがギムレットでねえ。
ああ、やっぱり飲みたくなった。ビールの次に作ってもらおうかな」客は笑顔になりました。
「はい。お作りしますね」

ヤモリに助けられたわ。悔しいけど。

ドアが開いて赤いドレスを着たお客がやってきました。

「あら、ミドリさんいないの?」
「今日はお休みなんです。すみません」
「いいのよ。ひとりで大変ね。ジャックローズをいただけるかしら」
「はい」

ジャックローズ?アップルブランデー、ライムジュース、えーっと、

 ― グレナデンシロップ!
 ― わかってるわよ。黙ってて。
 ― はいはいサラバ。しばしの別れ

ジャックローズを出すと同時に、4人連れの客が入ってきました。すでに酔って、賑やかに笑い合っています。
ハキハキと注文を受け、手際よくお酒を作りながら、雛子は嬉しさを噛みしめていました。大丈夫。上手くいってる。

「あれ?ビールじゃないよ。俺はジントニックを頼んだんだ」
4人連れの一人が文句を言いました。
「ビールって…」
「やだなあ、ジントニックだよ。なあ、俺、ジントニックって言ったよな」
酔った連れ達は「あー、言った言った。言ったんじゃないかなあ」と合いの手を入れます。
「失礼しました、すぐに作りますので」

雛子はカウンターに戻り、ビールを捨てました。あの人、絶対、ビールって言ったのに。
新しいロンググラスを出そうとした手元が乱れ、グラスが落ちて派手な音をたてて割れました。
店に一瞬沈黙が流れ、雛子は真っ赤になって「し、失礼しました」と小さな声で謝りました。 

「おいおい、大丈夫かよ」4人連れの客たちから失笑がもれます。
ガラスを片付けないと。違う違う、ジントニックが先。
パンプスが大きな破片を踏みつけ、ジャリっと嫌な音をたてました。

 ―ジプシー、落ち着け。たいしたことじゃない
ヤモリが声をかけますが、もう、雛子の耳に入りません。

ドアが開いて、二人連れの客がきました。
「なんだ、ミドリさんいないの?じゃあ、また来るよ」
ひきつった笑顔で見送りに行き、急いでジントニックを作って客に頭を下げ、
床のガラスを掃き集めようとモップを手にした時、口髭の客と目が合いました。
ビールはとっくに飲み干されています。
あ!ギムレット…!
放したモップが倒れるのを掴もうとした手が、出しっぱなしにしていたボトルを薙ぎ払い、
アップルブランデーの強い香りが店中にたちこめました。

最後の客を送り出して、ミドリさんに今日の報告をしようとしたけれど、電話は繋がりませんでした。
店の掃除を始めたら、我慢していた涙がぼろぼろこぼれました。
やっぱり、ここは私の場所じゃないんだわ。張り切っていた日がめちゃくちゃになるなんて、きっと縁がないのよ。
雛子はまた窓辺に寄りました。また探そう。あの灯のどれかに私の居場所があるはず。 

 

 ― ジプシー、まだジプシーでいる気かい?ひとつの所で頑張ることが一所懸命って、知らないかなあ。
 ― さすがヤモリね。家守らしいご忠告。そうやってずーっとこのお店を守ってきたってわけね。私は行きずりのバイトの1人よ。もうお別れね。
ヤモリは黙っています。

 ― 何とか言ったらどう?さよなら?バイバイ?さらば?私がいなくなったらセイセイするでしょ。
 ― 雛子、ここでもいいんだよ。
ヤモリの声が変わりました。

 ― 雛子はいつだって、いるべきところにいるんだよ。雛子がいるところが正しい場所なんだ。
 ― え?

懐かしい声。いつも、「それでいいんだよ」って言ってくれた声。

 ― ここだと思ってやってごらん。そうすればきっと上手くいく。
 ― …ずっと、見ていてくれたの?
 ― 約束しただろ。さあ、もう大丈夫だね。今度こそ本当の、しばしの別れだ。見守っているよ。ずーっとね。

 

電話が鳴りました。ミドリさんがかけ直してくれたのです。
「そう。大変な一日だったね。で、割れたグラスで怪我しなかった?」
「えっ?いいえ。わたしは大丈夫なんですが」
ミドリさんは笑って続けました。
「一日の損害が、グラスが1個とアップルブランデーがほぼ1本。ビールが1杯と新規客4人。でもね、記録はまだまだ破れないわよ」
「誰の記録ですか」
「ゆっくり聞かせるわ。お楽しみに。また明日ね」
「はい。また明日」

また明日。また明日。電話を切ってからも、雛子は祈るように繰り返しました。

気が付くと、窓は、壁と似た色のカーテンで閉ざされ、カウンターにキャンドルが一つ、灯されていました。

 

おわり

 

 <Bar Up to You>
新宿西口、路地裏の雑居ビルの7Fに隠れ家のように佇んでいる小さなBar。

東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
tel : 03-5322-1112

営業時間:17:00~25:00  定休日:日曜日

夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。

このブログは、毎月1つの酒をテーマに、当店のゲストの皆様方が、一編のストーリーを作り、投稿されているブログです。

当店のHPはこちら! http://www.up-2you.jp/index.html