One Shot Stories

新宿の路地裏のBar Up to You が贈る ~1杯のお酒が紡ぐ、ちょっといい話~

Vol.8 「便箋」/北海ミチヲ。

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拝啓 

 

依子様

 

季節がすっかり春めいてきましたね。いかがお過ごしでしょうか。

今年の春は、例年にない暖冬のためでしょうか、あの家に通う道の河津桜がいつもより早咲きに感じます。

目には鮮やかなピンクが飛び込み、春を感じているのに、躰はダメですね。春がピンと来ません。厳しい冬を過ごせばこそ、春はより鮮やかに、そして温もりと共に感じるものなのかも知れません。

 

君が植えていったツルハナシノブが、今年も庭で芽吹いてきています。去年よりもひと回り大きくなって、紫の色味が深くなりそうな気配がしています。結局、あの家には月に2度ほどでしか通えてません。

〝ツルハナシノブは、放っておいても大丈夫だから。〟

そんな君の言葉は、今の私を予感していたんでしょうかね。

 

仕事は、相変わらずです。

静かな日々を重ねています。

 

以前みたいに怒鳴ったり、イライラしたり、あれは、あれで一生懸命だったのだと思うのだけれど、今になって思えば、役割の中の小芝居みたいなものだったのだと思うことがあります。ああいうものを人生の全てだなんて思ったまま命を終えるのも、それはそれで幸せなのかもしれないけれど、別な生き方を知ってしまうと、妙に以前の自分が陳腐に見えてきます。

 

新しい仕事場は、以前より通いの時間が短くなりました。朝起きる時間は変わらないので、むしろ朝の時間を持て余しています、何とかしないといけませんね。

職場は、あれから何度か移転したけれど、ここらで落ち着く感じがします。先日、社長さんが話してました。私より二十も若いのに大したものだと思います。若さとは、こういうものなんだなと気づかされます。若さの真ん中にいる時は、希望や欲ばかりで何も気づかずに走ってました。そういう意味では、先程、私の人生が陳腐だと書きましたが、それなりに馬力はあったのかもしれません。

 

いずれにしても静かな日々が続いています。

 

そういえば、先日、社長さんが、突然、訪ねて来ました。新しい炬燵を置いていってくれました。〝貰い物ですけど良かったらどうぞ〟って。君の買った炬燵も、もう随分年季が入っているから、ちょうどよかったです。炬燵のスイッチを入れますと、あのオレンジ色の灯りがボーッとついたり、消えたりしてましてね、あー、もうそろそろダメかなって思ってました。温かい冬だと言っても、朝晩は結構寒い日もありまして、こういう時は、炬燵の温もりはありがたいものです。

 

社長さんの話をもう一つだけ。

 

この前、先代が珍しく会社を訪ねて来ました。随分、久しぶりでした。社長さんは、今でも、先代には気を遣っていて、先代の顔を見るや否や、そそくさと〝営業行ってくるはんで〟って。軽トラ、ブンブン言わせて出掛けてしまいました。

 

先代は、私を見つけるなり、〝おお、しんちゃん、体の具合はどう?〟って、あまりに気軽に声掛けるものだから、最近入ったパートの正子さんあたりは、びっくりしちゃいましてね。〝大社長、もう大丈夫ですよ、その節は、色々と心配かけました。〟って返しました。

依子さんのこと、随分、気にかけてたから、大社長は。先代の頭もすっかり白髪になってね、随分、年を取ったものだと思いました。

 

さて依子さん、今日は一つご報告があります。

 

先代からも随分、以前から迫られていた縁談の件、やはり断ることにしました。

 

私は、先代みたいにパワフルでもないし、そもそもそんな気にもなりません。男にも老いというのがあるんだなと、最近はしみじみ感じています。

聞けば、お相手は、確かに素敵な人かも知れません。でも、私にとって、今の日々もそれ程悪いものではないのです。

 

偶然に残った古い手紙や、懐かしい写真たちと過ごす日々は、ある意味、私に残された最後の豊かなひと時なのです。

 

やはり、紙はいい。

 

多少汚れても、破れたりしても、掌の中にきちんとあの時の風の薫りや交わした言の葉の数々が蘇ってくるものです。手紙にしても、か細い文字の、一画一画に確かな肉筆感があって、そこに確かに依子さんが書いたんだって記憶が残っていますから。

 

それだけでも十分です。

 

デジタル世代の息子たちは、笑っているかもしれないですけど。

 

だから縁談は断りました。

 

あの日、私たち家族は、大きくその形を変えてしまったけれど、壊れてしまったわけではないのですよ。


少なくとも、私はそう思ってます。

 

依子さんや息子たちと、今は離れているだけなんだと。

 

私は、そう思ってます。

 

最近、少し考え方を変えました。むしろ私が依子さんから離れているんだと。何か悪いことでもして、監獄に入っているんだと考えるようにしています。

そうすると、色んな不自由なことの多くも、実はありがたいことなのではないのかと思うのです。

 

自由に歩き、勝手に寝起きをし、好きなものを食べて、たまには表通りの郵便局のあの赤いポストの角を曲がった、古めかしいバーなんかにも行って、ママ自慢のカクテルなんかをいただいたりもしています。

ああいうものはよくわからないんだけど、最初、ママからそのお酒の名前を聞いた時、てっきり息子たちの名前かと思いました。

 

私がそう話すと、ママは、笑いながら、少し目頭に涙を溜めてました。

 

それ以来、いつもそれをいただいてます。スッキリとしていて、少し酸味がありましてね。何よりグラスの向こうが見通せる透明感が何より心地いいです。

 

美味しいです。

 

還暦を迎えて、田舎育ちであまりそういう洒落たものには縁がなかったものだから、余計に新鮮に感じてしまいます。

 

おそらく、この名前は生涯忘れないでしょう。

 

みんな色んなことを思い出すんでしょうね。歳を重ねるということは、楽しいことも沢山あるけれど、実は、悲しいことを心の奥底にじっと沈めるということなのかも知れないですね。

この監獄生活も考え一つで自分と見つめ合う、いい時間なのでしょう。実際に入ってしまったらこんな呑気なことを言えないのかとは思いますが。

 

いずれにせよ、私の今は、静かで、自由で、そして信じる希望に溢れる日々なのです。

 

今年も慰霊祭には行きません。

隣の相田さんは、昨年から慰霊祭に行ってるそうです。

 

でも、私は、今年も行かないつもりです。

 

私にとっては、何年目だろうがあまり関係のないことなんです。

私は、依子さんと、息子たちを待っているだけなのだから。

 

依子さん、仁、そして愛犬ニックへ。

 

令和二年 ある晩冬の午後に。

信二郎より

 

 

2020年現在、この国には、災害やその他の事情で行方不明になっている人は年間85000人を超えるといいます。

その数だけ信じて待っている人がいます。強い希望を心の奥深く、今にもこぼれそうになる悲しみと背中合わせに抱えながら。

 

<Bar Up to You>
新宿西口、路地裏の雑居ビルの7Fに隠れ家のように佇んでいる小さなBar。

東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
tel : 03-5322-1112

営業時間:17:00~25:00  定休日:日曜日

夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。

このブログは、毎月1つの酒をテーマに、当店のゲストの皆様方が、一編のストーリーを作り、投稿されているブログです。

当店のHPはこちら! http://www.up-2you.jp/index.html