One Shot Stories

新宿の路地裏のBar Up to You が贈る ~1杯のお酒が紡ぐ、ちょっといい話~

Vol.10 「逆上がり」/浦霞林檎

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ドアを開けたとたんに、小さな修羅場が飛び込んできた。
「放してよ!大丈夫だって言ってるでしょ!」
「ゆうちゃん!もう10時なのよ。子どもが出歩く時間じゃないでしょ」
「なんだ?どうした?」
勇樹のジャンバーの袖を掴んだまま、妻は「おかえり。ねえ、言ってやってよ」と困った顔を向ける。
「だからボクは夕方行こうとしたのに、ママがバイオリン休んじゃ駄目だって言ったんじゃないか」
「当たり前でしょ。お月謝いくらだと思ってるの!」
「ママは、オレより月謝が大事なの?」
「勇樹、どこに行きたいんだ?お父さんに説明してごらん」
近頃は「パパ」は呼びにくそうにしていたので、僕は敢えて自分を「お父さん」と言うようにしている。
「パパ!公園に行かなきゃならないんだよ。ママが止めるんだ」しかし今は呼び方なんかにかまってられないらしい。
「公園で何するんだ?誰かに呼び出されたのか?イジメか?」
嫌な想像に襲われ、性急に問いただす。
「違うよ!鉄棒の練習をしたいだけなんだ」
「ゆうちゃん、落ち着いて。ね、明日学校が終わってから行けばいいじゃない」
「だから!明日体育があるからって言ってるじゃないか!放せよ!くそばばあ!」

ネクタイだけ外したスーツ姿のまま、勇樹と夜道を歩く。

「くそばばあはまずかったよ。お母さん、貧血起こしそうだったぞ」
「だってさあ。あーあ、いつまでオレに干渉するんだろう」
思わず噴き出した。
「おまえ、小学生だぞ。まだ親の言うこと聞きなさい」
「僕の言うことも聞いて欲しいよ。クラスで僕ともう一人しかいないんだ。逆上がりができないのは。パパ、僕、恥ずかしいんだ。どうしても、できるようになりたいんだ」
「そうか。あ、そのもう1人の子と練習するといいんじゃないか?仲良くなれるぞ、そういうの」
「超トロい、コマキって女子だよ。やだよ」

夜更けの公園。真ん中に外灯が一つ。
勇樹は、3つあるうちの、一番低い鉄棒を逆手で握る。
「とりゃあ!」勇ましい掛け声も虚しく、蹴り上げた足は空をバタついて落ちた。
「うーん。もう少し腕で引きつけて、クルッと行っちゃえばいいんじゃないか?」
「やってるんだけど、落ちちゃうんだよ」勇樹は首を傾げる。
「お父さんが押してやろう。それで感覚を掴むんだ」
勇樹の、蹴り上げた体を押そうとしたが、タイミングを外した。記憶より、勇樹は重くなっていた。危ういところで無理矢理腰を鉄棒に乗せた。

着地した勇樹は、憮然とした顔をする。
「よく分からなかった。お父さん、お手本見せてよ。」
「うーん。お父さん今日、お酒飲んで来ちゃったからなあ」
背広を脱いで勇樹に預け、一番高い鉄棒を握る。懐かしい、鉄の冷たい感触、匂い。
念入りに弾みをつけ、勇樹を真似て「とりゃあっ」と蹴り上げてみたが、呆気なく落ちた。
「重てー」
「パパ、いいよ。もうボクひとりで練習するから」
すごすごとベンチに座って、手のひらをさする。

何処に咲いているんだろう。微かに梅の香りがする。
勇樹の荒い息と、土を蹴る靴の音が響く。
ジョギングしてきた若者が、ちらっと自分と勇樹を見て行く。深夜の逆上がりの特訓。スパルタとか虐待に見えなくも無いな。
「おーい。勇樹ぃ。無理するなあ」
わざとらしく呑気な声を出した。
「もうちょっと!もうちょっとなんだ!」

頑張るなあ。この強さは妻ゆずりだ。
きっぱりと結婚を言い出したのも彼女だった
「どうしても、あなたと生きていきたいの」。
そう言った目の輝きに惹かれた。
自分は、何かをどうしても欲しいとか、絶対に叶えたいと思ったことが無い。
アスリートも研究者も「オタク」とか「おっかけ」も、何かに熱中している人を遠く、そして羨ましく思っている。
僕は熱が足りない。ストレートな感情表現もしない。というか、感情が希薄なのかもしれない。
それはずっと心に引っかかっていたことだった。

「あーっ!」

叫び声で我に返った。「ど、どうした?」
勇樹は強張らせた手のひらを睨んでいた。

「豆がつぶれたんだよ。帰ったら絆創膏貼ってもらえ。泣くなよ。前見て歩かないと転ぶぞ。やれるだけやったんだ。偉かったぞ。
逆上がりなんて、ある日突然出来るようになるもんだ。明日かもしれないぞ。元気出せ」
勇樹は腕で乱暴に涙をぬぐう。
「パパは、ビール飲んで来なかったら、出来たの?」
「うーん。どうだろう。あ、今日はビールじゃなくて、ちょっと飲み慣れないお酒だったんだ。ジントニックって言ってさ」
「ふーん。美味しいの?」
ママが教えてくれた、カクテル言葉が蘇る。「決してあきらめない強い意志」
「父さんには、ちょっと、眩しいかな」
「ふーん。よくわかんないけど。ね、お父さんさ、また僕の頼み聞いてくれる?」
「なんだ?今度はどうして欲しいんだ?言ってごらん」
「今じゃないよ。今日みたいに、僕が困ったらさ、助けてくれる?」
「もちろん!絶対!必ず助ける」
「なんでも?」
「なんでも。何があっても。お父さんは絶対勇樹を助けるぞ」
「絶対?」
「絶対、絶対。必ず!」
「絶対だね」
きゅっと喉が熱くなった。眼も熱くなった。ああ、熱いや。
静かに笑いがこみあげてきた。
「何度言わせるんだ。絶対だよ」

おわり

 

 <Bar Up to You>
新宿西口、路地裏の雑居ビルの7Fに隠れ家のように佇んでいる小さなBar。

東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
tel : 03-5322-1112

営業時間:17:00~25:00  定休日:日曜日

夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。

このブログは、毎月1つの酒をテーマに、当店のゲストの皆様方が、一編のストーリーを作り、投稿されているブログです。

当店のHPはこちら! http://www.up-2you.jp/index.html