Vol.3 「非情階段」 /北海ミチヲ。
「ねえ、いったいどうしたら、僕の気持ちをわかってくれるんだよ」
僕は、またもや、この台詞を言いだしそうになって、グッと飲み込んだ。先週の金曜の夜もそうだった。楽しく、他愛のない話題と、食事をしながら過ごしていたと思ったら、また、5年前のあの出来事が蒸し返されてしまった。
どっちからというわけでもなく、また始まってしまった。
今夜は、グラスについた彼女の秋色のルージュのことから、楽しいディナータイムは一変した。褒めたつもりだったのにと思いながら、気づけば藪蛇だった。まさか地雷がこんなところにあったとは…。
彼女とは、いつもこうなのだ。時に病的なものすら感じる。怖いくらいだ。
「だから、言ったよね?何もなかったし、あの人は、もう東京にいないって」
「真実」と「事実」は、違う。いくら、こっちが「真実」を話したところで、彼女は、「事実」で立証しようとする。だから食い違うのだ。どうやったら彼女の中にある「事実」を覆して、僕を無罪放免にできるのか。どこまでいっても、これは冤罪なのだ。
彼女は、事細かにその「事実」を立証しようとする。検事と証人を一人二役で、正確で寸分狂わない台詞をもって。その記憶力もまた異様なものだ。
「じゃあ、今更、どうしろっていうのさ。」
あー、言ってしまった。また彼女の核ボタンを押してしまった。心の中では、こんなこと思っていないのに、なぜ、脳と口と心を一括操作できないんだろうか。昼間、営業課長に言われた『お前、不器用だね、ホント』って、ニヤリとメガネの奥で言われたのを思い出した。
「ちょっと、待てよ。駅こっちだろ。」
彼女のヒールがカツカツと音を立てながら、歩道を叩いている。まるでパーカッションの楽器のように。さすがにスクランブルの交差点の真ん中でもめているのには、彼女も少し冷静になったのだろうか、二人の住む街へ向かう駅と反対方向に歩きだしている。彼女の長い髪が、そのヒールの刻むリズムと共に揺れていた。その後ろ姿で、彼女が怒っていることは、誰でも気づくほどだ。そして、その後を、女性もののコートを抱えながらついていく男を見れば、多くの人は、『こいつ、なんかやっちゃった?』って思う、当然の場面だ。世論はこうやって作られていくんだよな。そうして、冤罪もまた世論で作られていく。
「落ち着けよ。なあ、」
僕は、彼女の肩にやっと追いついた。この重い書類の入ったバッグさえなければ、なんてことないのに、今夜は特に重い。働き方改革のしわ寄せは、結局、プライベートの週末までもシェアしていく。家での仕事さえなければ、もう少しスマートに振舞えるのに、右手に彼女のコート、左手にバッグ、おまけにこの靴は、今朝、下ろしたばかりだ。意外と足にあっていないことに気づき、小さな靴擦れがおきている。正直、右足の踝のあたりが痛い。とにかく最悪の金曜日だ。
二人が立ち止まったのは、知らない小さなビルの前だった。奥まったところに外階段が見えた。
「とにかく、わかったから、なんでもするから。」
これも言ってはならない終盤のセリフだ。とにかく場を収めるために使う最終兵器といってもいい。いつもなら、この僕の誠意のない言葉に最後の火が付くのだが、今夜は少し違った。彼女が顎で外階段を示した。
例のやつだ。今夜もそろそろ幕引きの時間が近づいている。
階段じゃんけん。
僕たちは、これでいつも決着をつける。
子供のころやった、チョコレートとか、パイナップルとかいうあれ。先に登りつめた方が勝ち。僕は、心に小さな安堵を覚えながら、週末の決闘の最終シーンを意識した。もはや結果はどうでもいい。僕は無言で彼女に抱えていたコートを手渡した。
二人は、鉄製の外階段を見上げ、大きく息を吸った。
「最初は、グー。じゃんけんポン」
「グ・リ・コ」彼女が3段だけあがった。
「最初は、グー。じゃんけんポン」
「グ・リ・コ」彼女がまた3段だけあがった。ふたりの距離が少し開いた。
彼女のヒールの音が、金属音に変わっていた。
10回ほど繰り返し、僕は10回連続で負けた。彼女はすでに2階から3階へ向かう踊り場に差し掛かっていた。11回目の彼女のパーで初めて僕が勝った。
「おー!勝った!勝った!」僕は子供のようにはしゃいだ。
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
その後も何度か、決闘は一進一退を繰り返しながら、ついに5階の踊り場で二人は並んだ。正直、重いバックと合わない靴のおかげで、ここで追いついたことなど、もうどうでもよかった。早く、この無謀な戦いを彼女が諦めないものかと心底願うばかりだった。しかし決着はつけないといけない。そして、冤罪を今夜こそ晴らさなければならない。
ふと階段の外に目をやると、この界隈のビルを俯瞰できた。高層ビルが遠くに見えているが、手前は古い雑居ビルばかり。なかなか上から眺めることがないので、新鮮にさえ思えた。晩秋の夜空は晴れていて、東京の少ない星がいつもより落ちてきそうなほど多く感じた。
パイナップルを3回繰り返し、僕が彼女を追い越し、7階の底が見え始めた。
「最初は、グー。じゃんけんポン」
心なしか、彼女の声が小さく聞こえた。またパイナップル。6段上った。
「最初は、グー。」
今度は僕の声だけが狭い鉄の床と天井に挟まれた空間に響いた。ふと階下の彼女を見た。
その時、彼女がうつむきながら、空にグーを突き出していた。
次のじゃんけんも、次のじゃんけんも。
彼女は、わざと握りこぶしを突き上げているのだ。まるで僕に小さな怒りをぶつけているみたいにも見えたが、彼女自身の内側に向かっていくような、何か表現に苦しい何かがあったようにも見えた。
そして、その時の僕は、彼女のすすり泣いている声が、この街のクラクションや道端の酔っぱらいたちの大声にかき消されていたことにも気づくことはなかった。
その後、彼女が、5階から上に登ってくることはなかった。
このビルの7階に、小さなバーがあることを知ったのは、あれから数年後のことだった。部下のひとりが紹介したい店があると、偶然に訪ねたのが最初だ。
今夜は、チームの2次会で皆がめいめいに仕上げの一杯を楽しみながら、景気やら会社のことやら勝手に話している。いつものパターンだ。内心、辟易もしている。
「課長、いつも思うんですけど、この店嫌いですか?」
部下の一人がいぶかしげに僕の顔を覗き込んできた。
「どうして?」
ここに気持ちがない心の内を見透かされたような気がした。
「いつもここ来ると上の空みたいだし…」
もう一人の女子社員が重ねてきた。
僕は、心の底に蓋をするように、気を取り直して彼らに向き合った。
「君たちさ、今はね、会社だって、何だって突然なくなったりするんだよ。だいたい生き方が不器用なんだよ。もっと仕事も、恋も冒険しなきゃ、冒険!」
僕の話が、場の流れに全く関係なかったようだったのか、小さな笑いが、テーブルの周りに花咲いた。
カウンターの客に出されたショートグラスのカクテルが、あの夜、僕の前を登っていった彼女のヒールの色と重なっていた。
<Bar Up to You>
新宿西口、路地裏の雑居ビルの7Fに隠れ家のように佇んでいる小さなBar。
東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
tel : 03-5322-1112
営業時間:17:00~25:00 定休日:日曜日
夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。
このブログは、毎月1つの酒をテーマに、当店のゲストの皆様方が、一編のストーリーを作り、投稿されているブログです。
当店のHPはこちら! http://www.up-2you.jp/index.html