One Shot Stories

新宿の路地裏のBar Up to You が贈る ~1杯のお酒が紡ぐ、ちょっといい話~

Vol.2 「赤いドレスとチョコレート」 /浦霞林檎

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靴音を吸い込む厚い絨毯の通路。低く流れる管弦楽のBGM。
連なる小さなシャンデリアより、ショーウィンドウの煌めきが、フロアの照明を担っている。
早苗は、その店の奥の壁面にかけられた服に目を止めた。あれかもしれない。やっと見つけた。胸が高鳴ってくる。
大理石の床のブティックに入ると、コツンとヒールの音が響いた。

「いらっしゃいませ」
若い店員が笑顔で迎える。あどけなさが残る薄化粧の店員。この高級ホテルのアーケードのブティックに似合うには、あと数年かかるだろう。早苗は親しげな笑みを浮かべて、こんにちは、と答えた。
と、奥のカウンターで書き物をしていた店員が、顔をあげ、眼鏡を外し、立ち上がって深々とお辞儀をする。
「いらっしゃいませ。ちょうど新作が入荷したところです。どうぞごゆっくり」
そして、婉然と微笑みながら早苗に近づく。若い店員は、心得たように道を空ける。

早苗は青のクロコダイルのケリーバックと、ひとつ上のフロアの、エステサロンのショッピングバックを持っている。
その老舗サロンでは、エステを受けた客にオリジナルの基礎化粧品を勧めて販売しているのだ。
足元はグッチのハイヒール。
店長の節子はそれらをさりげなく見て取り、更に、客が着ている薄手のコートも、確かイタリアのスーパーブランドの新作ではなかったかと慌ただしく思い出す。こういう上客をヒヨッ子のスタッフに任せるわけにはいかない。里香には、ついさっき、売上個人予算の達成率をもうちょっと伸ばさないと、本社のスキルアップ研修に送り込むことになると、説教したばかりではあるけれど。

里香は内心ホッとしている。こんなお金持ちそうなお客さんを担当して、トンチンカンなことを言ったら、また店長にお説教をくらっちゃう。この仕事に就いて数カ月経つけど、本音を言えば、高級服の販売なんて、お客さんに何をどう言ったらいいのか、いまだにわからない。わかるわけないよ。東京に来る前は、毎日高校のジャージ着て、山と田んぼしか見てなくて。今だって、ファストファッションの服しか買えないんだもん。

でも、里香はこの職場が好きだった。美しい服を扱うのも、試着するたびに生き生きと変身するお客様も、店長の優雅な接客も。この、にこやかなお客様は、どの服に興味を持つのだろう。

「あの、奥の赤いドレスを見せてください」
「ああ、お目が高いですね」節子は驚嘆の笑顔を見せる。「ただ今ご用意します」
里香は小走りにドレスを取りに行き、節子は眼鏡チェーンを外してカウンターに置きに行きながら、客の後ろ姿に目を走らせる。

「マドレーヌ・パジェの服も、お試しいただいたことはございますか?」
高級ブランドの服は着慣れているでしょうけれど、というニュアンスを込めて節子が言う。
「いいえ、初めてです。もちろん知っていましたけど」
「ありがとうございます。あちらのドレスもいいですが、他にもお似合いになりそうなものもいくつかございますので、後ほど…」

里香が赤いドレスを運んできて客に見せる。教わったとおり、客の右寄りに立ち、右手でハンガーのフックを持ち、左手は、ドレスを少し抱きあげるように後ろから軽く添える。初めて接客した時、片手でハンガーの肩を掴んで客に突き出し、節子に叱られたのは忘れていない。

「パリのオートクチュールから始まったブランドですので、エレガンスや華やかさを何より大切にしております。このドレスは、初代のデザイナーのマドレーヌが東南アジアを旅した時に、アオザイにインスピレーションを受けて、デザインしたもののリメイクです。一点ものでございます。サイズが34でございまして、」節子はそこで言葉につまった。

「ああ、アオザイベトナムの服ですよね」早苗の目はドレスに釘付けになっている。
「はい。アオザイの特徴のスタンドカラーを、シルクタフタのフリルに変えていますので、アオザイそのものと思う人は少ないでしょうけれど。体に付かず離れずの、細い縦のシルエットと裾のスリットにアオザイらしさがあります。かつてのオートクチュールでは、イブニングドレスとして作られましたから、もっと華やかなディテールが施されていました」
「素敵ですねえ。生地は?」
「はい。イタリアのコモ地域のシルクの生地メーカーのもので、えー、老舗の…なんて言いましたかしら」
里香も天井を見上げて思い出そうとしている。入社研修で習ったばかりだ。
「いいのよ」早苗が笑う。
「失礼いたしました。ただ、」節子が少し眉を寄せる。
「こちらのドレスは一点ものでございまして、34サイズとやや小さく、」
「34、イタリアサイズだと36くらいかしらね。ちょうどいいわ。合わせてみていいかしら」
「あ、…はい。ご試着…」
「いいえ、当てて見たいの」
「…はい、ではあちらのお鏡へ」

早苗は、鏡の前で、ハンガーから外したドレスを肩から当てて見る。いい。絶対いい。
生地はキリッとした張りのある質感でアールヌーボー調の地模様、赤に深い気品がある。膝上の深さのスリットは、重なりのあるベンツ仕上げ。座って足を組んだりするまでは貞淑に閉じるはず。シンプルな袖は繊細に透けるシフォン。腕だけが生身の色気を放つだろう。絶対いい。

「いいわ」早苗の横で一緒に鏡を見ていた節子は、その言葉に軽く頷き、しかしサラリと視線を外す。
「こういったテイストがお好みに合うようでしたら、あと数点、ファーストラインのドレスをご覧いただけますか?里香さん、青いスパンコールのと、黒のタフタと…。いいわ、私がお持ちしますので少々お待ちください」

一歩下がってうっとり見ていた里香は、客と二人残されて、あ、会話をしなくては、とわれに帰る。
「お客様、お綺麗ですねえ。お肌が白いから、この赤いドレスすごくお似合いになります」
「ありがとう。私もいいと思うのよ」謙遜もせず嬉しそうに言う客が、里香には眩しくみえる。
「本当に素敵です。どんなところへ着て行かれるんですか?」
「そうねえ、まだ決めてないけど」
「そうなんですか?パーティーか何かあるのかと思いました」
「ふふふ、パーティーがあればいいんだけどね」

ストックルームでドレスを探す節子に、二人の笑い声が聞こえてくる。
もう!ヒヨッ子は呑気に何を話してるの。他の服を勧めないと…。焦りながら4点のドレスを選び、可動ラックに掛けて客のところへ戻る。

「お待たせしました。こちらもファーストラインのドレスです。黒いドレスは、お客様はもう何枚かお持ちかと思いますが、このドレスはサックドレス風のシルエットが大変すっきりと、」
「こっちの方がいいわ」早苗は赤いドレスに目を戻し、里香が大きく頷く。
「左様ですか。あと、こちらは」
「ううん、私、この赤いのが気に入ったの」

節子は一瞬黙り、懇願するような笑顔を作った。
「お客様、でしたら一度ご試着をしていただけますか?フィット感など拝見させていただけると」
早苗はにっこり笑って首を振り、財布からカードを取り出した。
「大丈夫だと思います」

節子はまだ何か言おうと口を開いたが、里香が「ありがとうございます!絶対お似合いです」と元気よく言ってカードを受け取った。節子は困った。この前も高額品が売れて翌日に返品になり、本社から、どんな販売をしているのかと注意を受けたばかりだ。確かに、一旦客の持ち帰った商品は、何かしらダメージを受ける。畳み皺。家庭の匂い。そして何故か、そのオーラを失う。出戻り品は不思議と最後まで売れ残る。あの時の客は、「娘に、似合わないって言われてね」と、あっけらかんと返品しに来たわけだけど、自分の社内評価は下がったままだ。
頭がいっぱいの節子の耳に、里香の無邪気な声が飛び込む。

「お支払い回数はいかがいたしましょうか」

ブラックカードのお客様に分割回数なんて聞かなくていいって、この前も言ったでしょ。声に出せず里香に向かって一瞬眉を上げる。
早苗は「1回払いね」と答えてから、二人に「こういうドレスを探していたんです。良かったわ」と言い、ほっとした顔をした。
節子の頬が微かに紅潮した。



「売れて良かったですねえ。あのドレス、あんなに高かったんですね」
客を送り出してからも、里香はすっかり舞い上がっている。
「わたし、金額が頭に入ってなくて、値札見てからびっくりしちゃいました。試着もしないで簡単に買うなんて、すごいわあ。それに、綺麗なお客様でしたよね。どんなお仕事しているのかしら」

ハイテンションの里香に、節子は今は何も言う気がしない。なんだか、どっと疲れた。今日は月末。月の予算には到底届かないけど、おかげで何とか格好がついた。でも、明日にもあのドレスは戻って来る。マイナスの挽回に何日かかるだろう。
節子が若い頃は、この店であれくらいの価格のドレスが売れるのは珍しくなかった。女優や大御所の歌手や大企業の社長夫人を顧客にして、自分はシンプルなドレス1着分ほどの月給をもらい、そこそこ優雅な生活をしていた。
遠い昔なんだわ。私も顧客も歳をとった。顧客は、もう、ドレスより、楽な部屋着が必要だという。
久しぶりの大物。私も焼きが回ってきた。返品されるような販売をするなんて。
里香のハイ状態はまだ続いている。

「どんなところで、あのドレス着るのかしら。パーティーは無いって言ってたけど。ランチとかに普通に着て行っちゃうんでしょうかねえ」
節子は小さな声で遮った。
「もっと勉強しましょうね。あれは着られないわよ」



「あ、そうだ。ママ、これあげる。って言っても頂きものなんだけど」
開店したばかりのUp to Youには、カウンターに早苗と男性客しかいない。

「チョコレート!高級そうじゃないですか。マドレーヌ・パジェ?洋服のブランドですね?」
「そこで洋服買ったらオマケにくれたの。フランスのチョコレート屋さんとコラボしたチョコだって」
「すごいオマケですね。ありがとうございます。お裾分けしてもいいですか?」
ミドリはチョコレートを小さな皿に乗せ、2つ奥の席の男性客にすすめた。
「それで、どんな服なんです?お買いになったのは」
「ちょうど、このお酒みたいなドレス」

早苗の前には、ひと口飲んだジャックローズが置かれている。今日一杯目のカクテルだ。
「ジャックローズ?それは綺麗でしょうね」
「綺麗よお。こんな、キリッとしたいい赤で、華やかでスッキリして」
「今度着ていらしてくださいよ。見てみたいです」
早苗は照れたように笑った。
「まだ全然着られないわ。多分、太ももあたりでつっかえちゃう」
「え?」
「一点ものなんだって。すっごく素敵なドレスなの」
「着られない服買ったんですか?えー?持っててどうするんですか?」
「もちろん、いつか着るのよ」
「えーっと、お痩せになるご予定でも?」
「そのとおり。ねえ、ミドリさん。お医者さんって想像力ってもんがないのかしら。いくら中性脂肪とかBMIとか下げろって言われたって、私は今のままの私が気に入ってるのよ。努力するわけないじゃない」
「あはは。でも、健康第一!ですからね」
「はいはい。でもね、細くて綺麗で、すっごく気に入ったドレスが一枚あれば、これを着たいって思うでしょ。そしたら痩せてみようって気になるじゃない。こういうステキなヤル気、えーっと、何て言うんだっけ」
「モチベーション」男性客が答える。
「そう!モチベーション!それが必要だったの」早苗は男性に、小さくグラスを掲げる。
「はあ。早苗さんらしいって言うか。店員さんに、ユニークですねとか言われなかったですか?」
「別に…あれ?私、痩せてから着るって言わなかったかも」
「うーん。売っていいもんかどうか困ったでしょうねえ」
「うーん。あなた太ってるから着られませんよって、ハッキリ言われたら説明したけど、ドレスに夢中で気が回らなかったわ」
「店員さんも、そうハッキリとは、どうでしょう」
「そういえば、店長さんっぽい人、他のドレス勧めてくれたわ」
「今頃、返品されるかもって心配してそうですね」
「そうよね、悪いことしたわ」
「そうですよ。それでチョコレートくれたのかも。返品しないで下さいねって意味で」
「あー!そっかそっか」早苗は大笑いした。
「ちなみに、いいお値段だったんですか?」
「分割払いにした方がいいくらい高かった。今は食卓の前に飾ってある」
ミドリが笑いながらチョコレートを頬張る。
「じゃ、ダイエット始めるんですね。おかげ様で私はチョコレートが食べられました」
「痩せるわよー。私、絶対似合うと思うの。楽しみだわあ。今夜は前祝いよ」

3人連れの客が入ってきた。ミドリは早苗に笑顔を残して新客の注文を受ける。
等間隔に並べる3つのグラス。メジャーカップやシェーカーを手品師のように操り、美しいカクテルを誕生させる。
早苗は、ミドリの無駄のない、流れるような動作をうっとりと見ながら、またジャックローズに口をつける。ショートグラスの中の赤い三角形が小さくなり、グラスの細い足に蕾がついたように見える。まるで、これから咲いてゆくような赤い蕾。

早苗はそれをしばらく見つめてから飲み干した。
同じものを、と頼んでから、「ねえねえ、ミドリさん」と、甘えるように笑いかける。
「チョコレート、美味しかった?」
ミドリは答えず、小さく指を振った。

 

 

 

<Bar Up to You>
新宿西口、路地裏の雑居ビルの7Fに隠れ家のように佇んでいる小さなBar。

東京都新宿区西新宿1-4-5 西新宿オークビル7F
tel : 03-5322-1112

営業時間:17:00~25:00  定休日:日曜日

夜な夜な訪れるゲストたちと美味い一杯とバーテンダーとの程よい時間が静かに流れていく。

このブログは、毎月1つの酒をテーマに、当店のゲストの皆様方が、一編のストーリーを作り、投稿されているブログです。

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